歴史的偉人に学ぶ経営学:勝海舟編
1823~1899年(享年76歳)
幕末の政治家。幕臣でありながら広い視野を持ち、坂本龍馬、西郷隆盛らを開眼させた。安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。万延元年(1860年)には咸臨丸で渡米しし、帰国後軍艦奉行並となって神戸海軍操練所を開設。江戸城無血開城に貢献した。
江戸っ子らしい「べらんめえ」調の気風よい口調でならした勝海舟。最後の言葉は「コレデオシマイ」。このように死の床まで洒脱でウィットにあふれ、一見、弁舌ストレートでドライですが、じつは、情・義理に厚いところがあったのです。
勝は肝が据わり、平時よりも、非常時や危機に強いリーダーと言えます。胆力に加え、開明思想、本音で生き、私心なく権力闘争や利害関係とも無縁に生きたことから、多くの味方と敵を作ります。やくざから将軍までが頼り、西郷隆盛も惚れ込みます。佐久間象山は義理の弟になり、その思想に坂本龍馬も惚れ、弟子入りするくだりは有名です。
胆力。勝は徒党を組まず我が道を行きます。第二次長州征伐の和平交渉、江戸城無血開城の際も単身敵地に乗り込み交渉します。その胆力は「禅と剣」の修行による、と本人は述べています。島田虎之助の道場で剣術を習い直心影流の免許皆伝となり、虎之助の勧めで禅も学びました。
勝が仕えた徳川慶喜は英明な将軍と称されますが、欠如していたのがこの胆力ではないでしょうか。頭は切れるが、肝が据わっていない。第二次征長の交渉、総裁会議での迷走、鳥羽伏見の敗戦から兵を残しての逃走と、いざというときにさじを投げるところがありました。その鞘当が勝でした。これこそが俺の出番とその胆力、人脈、知行合一(ちこうごういつ)で交渉します。
人脈。勝は貧乏御家人の生まれで、町衆との懇意な付き合いで庶民感覚を養いました。また火消し新門辰五郎や、やくざの親分らが心と情で動くことも体得しています。当時、武士は一握りの7%。上級武士は1%とも言われます。それが残りの93%を統治するわけです(※)。庶民感覚もなくその生活を守ることは至難の業。勝はそのすべてとは言わないまでも、町衆の心や生活を理解できました。新政府軍の江戸総攻撃では交渉が不調に終わった場合を想定し、新政府軍が入ると江戸を火の海にして民衆を船で逃がす手はずを整えました。また篤姫を市井の生活に触れさせるため、吉原に連れていったという実話もあります。
※平戸藩が行った1871年の調査では士族が572家、100石以上の上級武士の家は100家あまり
東日本大震災のその後を観察するに「国民一流、リーダー二流」と感じます。危機に際しても冷静に秩序立った行動を示す被災者の方々と、ビジョンなく怒りを撒き散らすリーダーの姿は対照的です。危機の際の慶喜のように映ります。一方、勝は庶民を理解し、かつ攻め入る新政府軍と冷静に交渉しながら、リスクマネジメントをした上で対峙したのです。
開明思想。ペリー来航時の老中首座・阿部正弘は、幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を広く募りました。その際、勝の海防意見書が阿部の目にとまり、幕府に参加することとなります。藩を超え日本を思う心は先見性があり、幕府の延命でなく、薩摩・長州藩との協調でもなく、共和制を視野に入れていました。日米修好通商条約批准書交換時の渡米経験や横井小楠との付き合いがその視野を広げたと言われます。リーダーとして門閥に関わらず力と人望のある人が選挙で選ばれる米国の仕組みを間近に見聞きし、枠組みを超えた新しいパラダイムを選択肢に持っていたのです。
明治になり、幕臣は静岡に移住の沙汰となります。徳川家700万石3万人を、70万石1.3万人にまで減らさざるを得ません。いわゆるリストラです。しかも役職と給与は5千人分。慶喜や旧幕臣の再就職先を探し、徳川家を潰さないために奔走するわけですから、勝の残り30年の人生は男としてけじめをつけた、非常に義理がたい、筋の通った生きざまと言えます。じつは、静岡がお茶どころとなった背景には勝の取り組みがあります。幕臣の生活を支えるために、静岡の気候に適したお茶づくりに取り組んだのです。そのような激動の生きざまから学べるのは、非常時のリーダーシップ、クールで胆力ある交渉力、幅広い交流と視野の広さ、知行合一ではないでしょうか。
※※ワールドジョイントクラブ誌、Vol.65、2011年6月24日号寄稿分
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