歴史的偉人に学ぶ経営学:山田方谷編
1805~1877年(享年73歳)
備中松山藩(岡山県高梁市)の家老。儒家・陽明学者。”備中聖人と称された。家老職として財政再建に取り組み、1862年には藩主・板倉勝静が老中となったことを受け、政治顧問へ。陸海軍の創設、学制改革などに辣腕を振るった。
備中松山藩の家老、山田方谷(ほうこく)は、日本の優れた思想家でもあり、実務家として偉業をなした人物です。勘定奉行の折りには、借金に苦しんでいた藩の財政再建に取り組み、新産業政策、藩札刷新などにより財政改革を成功させ、7年で10万両(現在の約600億円)もの借金を10万両の蓄財に変えるほどの手腕だったといいます。
彼は14歳で母を、15歳で父を亡くし、遺された弟たちを養うため、農業と菜種油の製造販売という家業に努めながら学業にも励み、篤学の名声を高めます。25歳で名字帯刀を許されると、藩校『有終館』会頭(教授)に就任。藩主・板倉勝静(かつきよ)の教育係となって指導者として台頭し、『閑谷学校』を再建します。明治時代には大久保利通からの入閣の誘いを断ってまで私塾を設けるなど、教育に心血を注ぎました。
方谷の基本思想は「武士も農民も慈しみ愛情をもって育て、国民全体を富裕にする」「領民を富ませることが国を富ませ活力を生む」という“士民撫育”。これは心理学で存在承認や成長承認を意味し、領民に関心と愛情をもって成長を手助けし認めることで、内に秘めた力を引き出すのです。リーダーシップは組織とメンバーの夢づくりや観察、承認をすることであり、共感を導きながら相互に啓発し合い、挑戦する場をつくって皆の力を引き出すことと言えます。そんな士民撫育は上杉鷹山公『伝国の辞』の“民のために君主がいる”に通じる思想で、民が富むことを続ければ最終的に国が富むという主民思想です。
また1855年の上申書『撫育の急務上申』によると「藩主の天職は、藩士並びに百姓町人たちを撫育することにあります。まず急務とするところは、藩士の借り上米を戻すこと、農民の年貢を減らすこと、町人には金融の便宜を図り公益を盛んにすること、この3ヵ条であります」と述べています。方谷は民政刷新政策によって国民の生活を安定させ、産業振興政策を行い国民全体の生活を向上させました。
彼の基本姿勢は“至誠惻怛(しせいそくだつ)”と言い「真心(至誠)と悼み悲しむ心(惻怛)があれば優しく(仁)なれる。目上には誠を尽くし、目下には慈しみをもって接する。このような心の持ち方をすれば、物事をうまく運ぶことができる。この気持ちで生きることが人としての基本であり、正しい道である」としています。そんな方谷の下には多くの人が集まりました。のちに長岡藩家老となり、戊辰戦争で新政府軍と決然と戦った河井継之助もそのひとり。彼は佐久間象山などにも学びましたが、備中松山藩で生涯の師・方谷と出会います。はじめこそ農民出身の方谷に“安五郎”との通称で手紙を書くなど尊大な態度をとった継之助ですが、方谷の言行一致した振る舞いと藩政改革の成果を見てすぐに態度をあらため、深く心酔します。死の間際には「山田先生に伝えてください。継之助はいまのいままで先生の教えを守ってきました」と伝言を頼んだほどです。
一方、軍事では日本初の農兵隊である『里正隊』を15年かけて西洋の近代的兵器で武装させ、方谷自ら洋式訓練を施し当時の日本最強の軍隊に育て上げました。のちに明治維新の原動力となった高杉晋作の『奇兵隊』は、これを参考にしたものです。戊辰戦争時は朝敵とされた松山藩ですが里正隊の強さが恐れられ、なかなか手が出せなかったと言われています。ところが方谷は民の安全を願い、主戦論を抑えて無血開城を実現しました。
そんな彼の生きざまからは、理詰めだがたくましさを併せ持ち、至誠かつ慈しむ心を基本とした士民撫育によるリーダーの姿を学ぶことができるのではないでしょうか。
※ワールドジョイントクラブ誌・Vol.71 2011年12月20日号執筆分
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